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肺気腫・腰椎すべり症・冷指病・満身創痍からの復活!

  肺気腫・高血圧・腰椎すべり症・冷指病・怪我後遺症・・!
 闘病・満身創痍からの復活!
 57歳で再就職!75歳まではつらつ現役勤務!!

  
  光線療法には、細胞賦活・再生作用など計り知れないパワーがあります。
   
  そう!22歳の誕生日に、
  「30歳まで生きられない!」と、
  医師に宣告された私が光線療法で復活し、以来約50年間、
  薬一粒も飲まず、超健康で、光線治療院をさせていただいてるように。

  上記の男性は、私の父。
 戦争で体を痛め、環境汚染の埃灰などで肺気腫を患い、入退院を繰り返しながらも、
 生まれつきの体の弱い母と二人で5人の子供を育ててくれました。

 
 そんな父が、光線療法との出会いで明るく裕福な晩年を暮らせた話、、、。
 
 ご参考になれば幸いです。

 

 

目次

55歳の父が、満身創痍に至ったのは・・・!

 その前に、満身創痍に至った経緯を、かいつまんで書いてみます。

 岩手県久慈市に、11人兄弟の次男として生まれた父は、尋常小学校2年になった春、
魚の行商の父親を手伝うために学校を辞めさせられました。
 「この子には学問させたい。私が学費を出しますから。」
と先生に引き留められたそうですが・・・。
 父親と兄と、重い荷を背負いながらの行商。その中で、寺の小坊主もした父親に、
勉強の基礎を教わったのでしょう。さらに新聞、雑誌などあらゆるものから
独学したそうで、達筆でよく物書きをしていました。
高校3年の私に、「涅槃寂静」の読みと意味を教えてくれたこともありました。

 そうして父のあとに続く子供たちは、大学、師範学校等学ぶことができました。

ついに働けなくなった父。

 結婚して3か月めの時、戦争で、満州に3回も徴兵された父は、
大きく体を痛めて野戦病院にいた時に終戦。
 真夜中に教えてくれた人あり!
歩ける数人の仲間と共に、シベリア抑留を直前に逃れました。

 やがて、農協の組合長をしながら村を活性化させた父は、我が子の教育のために八戸市に転居。
 以来、イカ釣り船、会社事務、東京を手始めに北海道網走まで出稼ぎもし、
宝石商から日雇い肉体労働まで様々な仕事をしつつ、
毎日書き続けた日記は、大学ノート24冊になりました。(私の宝物です。)

 1974年夏、東京にいた私が入院した時、東京にいて駆けつけてくれた父は、
顔色が悪く息苦しそうで、逆に心配になりました。

 その時22歳の私は、「6歳の時からの肝炎で、30歳まで生きられない!?」宣告を受け、
自宅療養を言い渡され、可視総合光線療法に出会いました。

娘の復活から、父の復活!母の復活!

 30歳までと宣告された私の肝炎は光線治療4か月で正常値となり、
医師を驚かせました。退院時から薬は一切飲まずに!
 光線治療を続け学びながら、入院中に薬漬けで弱った体を復活させ、
暫く入院していた父の退院を機に、父の光線治療も始めました。

 痛くて歩くのが困難な足の大きな胼胝(まめ・たこ)、関節痛、腰椎すべり症、
文字をかくのもやっとの手指や足の冷え、肺気腫、高血圧等々。

 毎日の光線治療一か月で胼胝は、ぽろっと取れました。
次第に体力も取り戻し、一年ほどで完治はしないものの普通の生活ができるようになり、
仕事を探し始めました。57歳になっていました。

 母は、とても小さな体に、心臓弁膜症・肋膜炎・高血圧などを抱え、
医師の忠告を無視して働いていました。51歳でしたが、
60歳まで生きられるか危惧されていました。

 同時に、この母の光線治療も始めていました。
母も休まずに仕事できるようになり、薬も減りました。

 あんたのお父さんは、馬鹿か!?

 そんな時、光線治療のお客様が、ある公団の仕事を紹介してくださり、
父は履歴書を出しました。

三日ほどして、、、その方から、

 「あなたのお父さんは、馬鹿か!」 受話器から大きな声が!。
「せめて尋常小学校卒と書いてくれ。戦争前のことを調べることもない!
職歴も五つくらいにしてくれ。17も書くなんて!書き直してくれ。」

 父は、「書き直しはしません。これでだめなら結構です。」

 しかし、見事な字で整然と書かれた履歴書に、父の馬鹿正直さにあきれながらも、
面接官と紹介者のお二人が推薦者となって下さり、並み居る役職経験者と共に採用され、
東北100人の中で上位の評価で毎年表彰され、健康状態も良好で、
75歳まで勤め上げることができました。

 光線療法との出会いで、満身創痍から復活し、身の丈にあった仕事と、
人生で初めてとも言える立派な給料とボーナスを戴き、欲しかった書籍等で心豊かな晩年を過ごし、
転倒による骨折から2か月後、迎えに来てくれたのであろう仲間の名を呼び、
穏やかな顔で還っていきました。82歳でした。

  ピンピンコロリと還った母。

 父の帰天から10年。光線療法を友として元気で一人暮らしをしていた母は、
次男に連れられて、月に一度の病院に行き、自ら受付に診察券を出したとたんに
その場に崩れ落ち、慌てて飛んできた医師は、

「いきなりの強い心筋梗塞で心臓がストンと止まったんですね。
苦しい!と感じるひまもなかったでしょう。
弱い方だったのに、よく頑張ってきましたよね。」
 86歳の初夏でした。

 真っ直ぐ進めば、やがて霧の向こうに出るんだ!

 生涯で、18もの仕事を経験した父は

「職業に貴賤はないんだ。」

とよく言っていました。この言葉で自分自身を励まし、
すべての仕事に真摯に取り組んでいたのでしょう。

 私が、「30歳まで宣告」で希望を失いかけた時、

 「お前は今、霧の中にいるんだろう。まっすぐ歩いていけば、
 やがて霧の向こうに出るんだよ。」

 無我夢中で医学書を読み漁り、可視総合光線療法を見つけたのは、
きっと、この父の言葉があったからでしょう。

 両親と、光線療法に、心から感謝しています。

 そして、病院のベッドでの私の毎晩の祈りを聞き届けてくださった神様に、
最大の感謝をささげます。

 道は、無限にあり・・・
 
 病に苦しむ方々の参考になれば幸いです。 ( 合掌 )

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