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肝臓病!!30歳までの寿命宣告!!

忘れもしない、あの日。私の人生を大きく変えたあの日。

光線療法との出会いを呼び込んだあの日。

そして人生の方向が決まってゆくきっかけとなったあの日。

22歳の誕生日に病院で告げられたあの言葉。

「あなたは30歳まで生きられません。結婚・出産なんてもってのほかです。」

あの日から48年。
10人の孫の成長に幸せを感じる日々を過ごしています。

今の私を見て、あの時のお医者様はどう思うでしょうか・・・。

目次

22歳の誕生日に、30歳までの寿命宣告が。

 青森県八戸市の県立高校を卒業して、東京都内の金融機関に勤めました。折しも、
コンピューター導入の時代。
 入行間もないころですが、一部門を担当し、早出残業の2か月を過ごし、
コンピューター移行が終わった頃、気づくと、体重が12㎏も落ちていました。
食欲もありません。油脂類が少しでも入ると、吐いてしまうのです。
 ついに病院に行きましたが、「疲労でしょう。」で薬を出されましたが、まったく改善しません。
 「すじこ・たらこ」を送って欲しいと、八戸の母に電話しました。
当時は、まだ、家庭電話が普及しておらず、道路向かいのお店に電話して、呼び出してもらうのです。
母の声に、思わず涙が込み上げ、用意した10円玉がなくなるまで、泣き続けました。
母は、黙って聞き続けてくれました。

沈黙の臓器が、沈黙を破り訴えだした!

 母から届いた「たらこ・すじこ・塩辛」などで、やっと少しづつ食べることができ、仕事に復帰できました。
見た目健康。張り切りガールの復活ですが、肝臓の解毒作用の低下で、顔、胸、背中にまで、
吹き出物が噴出し、黄疸が現れれば、すぐに診断がついたでしょうが、病院でも、
特に指導がありませんでした。
 そんな状態でも、恋の噂もちらほら、、、でしたが、、、。

 引き留めて下さるのを振り切って、金融機関を2年で退職。
外資系の会社に勤めました。仕事は多く忙しかったものの、
楽しく充実し、スポーツも再開し、テニス部に所属。

 ニキビの中に顔があり、胃部膨満感は常にあり、油脂類を食べると、やはり
吐いてしまうのですが、、、。痛むことはなく、まるで筋斗雲に乗ってるような
フワフワ感の中で、見た目元気に、休むことなく仕事していました。
 一年経たずに、2週間の海外旅行にも行けました。
 折しも、「ハイ・ジャック」が世界を騒がせていた時でした。

 この旅行で、体調の異常を再確認することになりました。
せっかくのパリ、ロンドンでの食事が食べれない!体調が悪く、ディナーパーティーも欠席。

 肝臓病の治療は、まず安静!も知らずに暴れまくっていたので、
ついに肝臓が沈黙を破り、悲鳴を上げたのです。

そして入院・・・どんどんひどい状態に。

 それから半年後、かなりご年配の先生に診て頂くことになりました。
その先生は、カルテと顔を見て、触診し、
「だめだ!即入院!」
肝臓が大きく肥大していたのです。午前中に仕事を引き継ぎ、即入院となりました。
21歳でしたから、診断は、「急性肝炎」。

 病院のベッドに横になった時、「ああ、助かったあ。」と、ホッとしたのを覚えています。
かなりの無理を重ねていたのでしょう。
沈黙の臓器は、本当に寡黙に、耐えて頑張ってくれていたのです。

 しかし、同室の、肝炎の若い女性達は、どんどん回復して退院していくのに、私の肝炎の数値は、
一向に下がりません。大きく高くはないものの、まったく下がらないのです。

ついに、肝生検を受けることになりました。


肝生検!麻痺感!そして不治の宣告!

 肝生検で、局部麻酔し肝組織を採取するため針を刺した瞬間は、一生忘れられません。

雷に撃たれたかのようなショックがあり、体が跳ね上がったのです!
痛みはなかったものの、何が起こったのかわからず、ただただ驚きました。

高熱も出て、しばらく苦しみました。平常に戻ると、針痕中心に、広く皮膚感覚の異常がありました。
また、寝たきりの一週間で、膀胱炎、腎盂炎など併発していました。
 
 そして、22歳の誕生日のその日。結果は、

 「6歳の時の肝炎が、治らずに、静かに進行していました。
30歳まで持たないでしょう。治す薬はありません!
東京の水も、あなたに合いません。田舎での自宅療養が良いでしょう。」

 岩手県の農村部で生まれ育った私は、仲間の「おてんば三羽カラス」3人で、流行性肝炎
になり、強い黄疸が出て、隣町の病院にお世話になったことがありました。
中学では、健康優良児推薦もありましたが、思い返せば、
小学校時代から、休みはしないものの、体調不良は、何度も何度もあったのです。

 それにしても、なんと無慈悲な宣告でしょう。

 22歳の誕生日ですよ。
同僚が、大好きなアップルパイで、祝ってくれたばかりですよ。
それに、戦争で体を痛めた父と、心臓弁膜症の母を頼ることはできないですよ。
入院中に、ひどい内臓下垂となり、満足に歩けないですよ。

 ああ!神様!どの神様に祈ればよいのかわからない。
 ああ、八百万の神様!どうか、朝、目が覚めたら、治っていますように!

 毎晩祈りました。

ピンチはチャンス!壁と見えしものは、霧なんだよ!

 もがきあがいている私に、父から手紙が届きました。

「お前は、壁にぶち当たっていると思っているのだろう。よく見てごらん。
壁なんかないんだよ。壁に見えているのは霧なんだ。だからまっすぐ歩いて行けば、
やがて、霧の向こうに出るんだよ。」

 幼い時から、艱難辛苦を越えてきた父の「悟り」の伝授でした。

 病院の隣に、大きな書店がありました。病院を抜け出して書店に行き、
片っ端から、医学書を調べました。数冊目に入った時、目に飛び込んできたのです!

「肝臓病なんて、病気のうちに入りませんよ。」

その瞬間、私はなぜか、100%確信したのです。
「見つけた!これだ!私は治る!」 

光線療法との出会いでした。

光線治療4か月で、数値正常になった!

 郷里の八戸市に、光線治療院があるのを知り、市立市民病院への紹介状をいただき、
立つのも辛い腰痛、腹痛に耐えながら帰省しました。
いつでも戻っておいで、、、と言って下さる会社に感謝しながら。

 早速、光線治療院を訪ね、光線治療を開始!やわらかで温かい光線は、
足の裏から血行が良くなるの感じ、光を浴びながら、体が癒されていきました。
入院した時とは真逆の、ほっ!とした感覚でした。毎日通いました。

 市民病院は、2週間ごとの検査です。
一回め、数値が上がっていました。
入院を勧められましたが、環境の変化と好転反応も考え、待っていただきました。
4週間後、6週間後、8週間後、、、数値はどんどん下がり、

4か月後の検査で、ついに、正常値になったのです!万歳!万歳!

医師は、「変えた薬が効いたのかな?!次は、半年後に検査しましょう。」

いえいえ、実は、退院以来、薬は、一粒も飲んでいないのです。
もう、薬は、精神的に拒否がありました。

快食・快眠・快便!感謝の健康生活

 肝炎は回復しても、内科でも婦人科でも、「あなたが丈夫になるしかないですよ。」
と言われた内臓下垂からくる辛い症状や、右脇から腕の麻痺感、上半身の吹き出物は、
まだまだ残っていました。
 
「光線治療を勉強しなさい。あなたの一生の仕事になるでしょう。」

治療院の先生に勧められ、助手をしながら、療術の勉強を続け、1年ほどして、
気づくと、あの辛い症状はほぼ消えていて、ニキビのなかにあった顔も、
「赤ちゃんの肌みたいね。」(^0^)と言われておりました。

 30歳まで!宣告から2年余り。
 結婚もできました。子供たちも、超安産で授かりました。
 頼まれて、肉体労働もできました。
 
 資格を取り、開業し、はや40年!
 経験から、同悲同苦の思いで、お客様のお気持ちに寄り添うよう努めています。

太陽の恵み・“日光"は、健康維持に欠かせません!!

 この48年間、薬いらず、病院もいらず。快食・快眠・快便の健康生活。

 たくさんのお客様が、光線治療で健康を取り戻し、それぞれに感謝しておられますが、
一番感謝しているのは、自分の健康があり、お客様がたの喜びを見せて頂ける、
私!ではないかと思っています。

 苦難困難の時こそ、魂が輝くとき!と言われます。
 無慈悲な宣告の、あの言葉!こそ、人生の新復活!を与えてくれました。
 
 神様、ありがとうございます。あのお医者様、ありがとうございます。
 父よ、母よ、ありがとうございます。



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